生かされ、生きて29.001 日を感謝

平成17年9月30日(金曜)晴 25度、7時起床、涼しくなった。昨日は天気に誘われて須磨の山に登った。気持ちが良かった。それから神戸市立博物館で開催されているベルリン至宝展を見た。
エジプト展、ユーフラ展が素晴らしかった。深い感動をおぼえた。また、昨日は一日断食をした。今朝は体調は快適、今後は日曜日の断食が良い。今朝は、快便、快食、快適だ。今日は県立美術館、シルクロード展を見に行きたい。


妙念寺 藤本先生に手紙を書いた。


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藤本  誠  先生

 いつもご指導深謝しております。今後ともよろしく
お願い致します。

 実は私の中学時代の友人が神野におります。
S.Yとしておきましょう。そのS.Y君から便りを
いただきました。

以下の通りです。

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清水兄へ

藤本様の頁をじっくりと読んでお便りしようと思っていたところでした。
最近の兄のページ、彼岸の墓参と同時に偉く仏様に近づいたものだね。
藤本さんとのやりとり、妙念寺の電話の講和、その他いろいろと勉強になります。

私は休職中に死を決意するほど悩みぬいて、夜は眠れず収まってから静かに考えていと、
何となく自殺者の心理も分かるような気がした時がありました。
こんな時は人間の理性などは通用しないようです。
そんな折キリスト教の信者さんに誘われて、教会を訪れ信者や牧師さんの温かい心に導れ、
正気を取り戻したようです。2年間ぐらい毎週通いました。
「神とは何ですか」と牧師さんに尋ねたら、「理屈でなく一年間通っているとわかりますよ」と
教えられました。讃美歌を歌えるのが何よりの救いでした。

2-3年経つうちに父の後を継ぐべき自分は先祖を守り、お墓を守りお寺と付き合うべき人で
あることを考え、父は何も言わないけれど、父の心を察すれば、・・・・・
キリスト教の三位一体・・・すべての宗教は天なる神が自然が支配していることを思うと、
皆同じだし、その時代時代に、その土地の国の民族の違いによって天なる神が
地上に使わせた人・・・・・そんな理屈をつけて仏様と付き合うことにしました。
キリスト様も必ず分かってくださるものと・・・・勝手な理屈かもしれないが。
でも、今でも私の宗教的な価値観にはキリスト教が中心になっているのかもしれない。

話は変わるけど、最近つくづく思うことは。
いろんな人の死に直面したことがあるけど、・・・親不孝ばかりしてきた人が、間際の言葉を
聞いていると、仏様のような気がしてくるのです。死の間際には仏のようにならないと
死ねないのかもしれない。・・・・S.60年事故で意識不明になった時、4時間後に目が覚めて
何とか元気になった時、自分にはまだまだこの世でやらなければならないことが沢山あるのでは、残された仕事があるんだと思いました。だから死なせてはもらえないのだと思った。

人間誰しもやらなければならないものがなくなって、すべてをやり終えた時には安らかに
仏様のそばにいけるのかもしれないね。だから私はまだまだ死ねない。

世の中の争い、戦争・・・民族の違い・宗教の違いで絶えることがない。靖国の問題などを宗教家が反対したり政治に口を出すことには賛成できない。だから戦争が。争いが、
宗教は仏の道を自分自身と対話し自分を高めていくものでは。自分のあるべき道を模索し実行するもの

偉そうなことを書いたように思うけど、・・・・藤本さんが言うように私には謙虚さが足らないように・・・修行します。

///// ------ ***** 以上です。

S.Y君と私は長い友人ではありますが、
格別深い話はあまりしたことがありません。

 以下は私のこの度の返書です。
S.Y  大兄

 日記風『HATENA』をお読み下さり有り難うございます。
兄は、中学時代の私の良き体操のコーチでありましたが、
晩年は私の心のあり方の良いコーチです。

どうかいろいろとご指導下さい。お願い致します。

 私は兄ほどの深い人生経験がないのです。
兄ほどの挫折感もなかったし、交通事故にあって
気を失うということも、また何かの後遺症で苦しむという
こともありませんでした。
(若干のスポーツ障害はありましたが、苦しみとは
言えませんでしょう。)

 HATENA にも書いているとおり、私は本当の意味での
人生の苦悩を知っていないと思います。それだけ神や仏を真剣に
考えることも無しに過ごしてきた暢気モノでもあるかと思って
おります。

 一応、長男を亡くしたり、長女の離婚問題などが
あり、相応の苦しみはありましたが、それは世に言うところの
皆様の苦労に比べたら、苦労などということは
おこがましいものであります。

本当に苦しんだとは申せませんでしょう。

 経済問題も、結婚以来豊かではなくても、明日食う米に
困ったワケではありませんし、借金の苦しみも知りません。

 まあ、大学に勤めてから、人間関係で相当に不愉快な
思いはありましたが、それも考えれば考えるほど、自分に
非があることばかり、自己改造の努力を他から強いられたような
ものですから、『身から出た錆』、人を恨むわけには行きません。

 まあ、言ってみれば、精神構造ではボンボンですね。

他愛のない、ひ弱な人間だと自分を考えております。
この度の表題『土の器』はご承知のとおり、聖書『コリント人への
第2の手紙、4章−7節』の言葉からの引用では
あるのです。

 ですが、あえてこの言葉の由来を書かなかったのは、
クリスチャンでも無い私がやたらと、聖書を口にする
ことは如何なものかという遠慮があったからに他なりません。

 ですが、『自分は土の器』なのだと言うことは
決して忘れないようにしようと思っているのです。
『しようもない奴や、だけど使って下さる方があれば、
お役にも立つように努力しような。』と言う自制と
自助努力の言葉でもあるのです。

 ですから、このたび『土の器』と言う言葉を使ったのです。

 私の生命観は、死んだら大宇宙の生命エネルギーと
いうか、ちょうど溶鉱炉のような大きなエネルギーの
もとに還元されて行き、すべて混合される。新しい生命体は
そこから生まれて来るモノのように感じております。

 だから、私が個体としてあの世に存すると言う
考えがないので、救われるのであれば現世で
救われたいし、あの世(彼岸)で云々の世界は
個人のレベルではないのではないか?
と思っております。

 地獄も極楽も無いわけでして・・・・・。
『そんなことはアカン』と言われても、そうとしか思えない
いまの心境なので、・・・・。浅薄と言われたら甘受する
以外ありません。

 ですが、死後も私は家族、なかんずく孫は守って
やりたいとは思いますから、自分の心の中はかなり
エエ加減なものでもあるのです。(次元は低い話です。)

 ガン、末期ガンは痛いそうですね。人格まで
ゆがめてしまうような苦しみはなんとか薬で回避したいと
思いますが、出来ればあんまり人の手を取らずに死にたい
と思っておりますが・・・・。宗教的な救いとは、こうした
現世の苦しみからの解放では多分ないでしょう。

 救いと言う語は、多分キリスト教で言うところの
『原罪』の意識、その罪からの救いでありましょうか?
つまり、人間すべて『カインの末裔』(弟殺しの子孫)で
あるという意識は、これは自己反省の重要ポイントで
大切なことだと思っております。

『お前は偉そうなことを言ったって、弟殺しの血で
その手は汚れているんだぞ。』この意識、これは
私たちには苦しいですね。

 ですが、これは現実的に多分本当でしょう。
我々の祖先と言ったところで、出自が武士階級
なら、やたらと人を斬り殺しておりますよ。

葉隠れ』なんか読むと、15歳になったら、人の
首切りをさせて鍛錬?したさまがはっきり書かれて
おりますよ。今の時代感覚では到底辛抱できない
話、山賊横行、辻斬り、強盗、婦女暴行は当然の仕業。
だが、誰も『俺の手は人殺しの血が混じっている』とは
言いませんワ。

 それどころか、俺の家は『士族』だなんて得意がる
のもいたり・・・。

 地主も同じようなもの、1反から米を5俵も小作料を
取ったことを知っているだろうか?
平時で1反から米は6−7俵ぐらいしかとれなかった時代に
5俵は豊作と不作の年のいかんに拘わらず百姓から
取り上げたのだから、小作人は不作の時の借料は
いつになっても払えず、ついには借金のカタに自分の
田畑を放す羽目にもなったことでありましょう。

 まあ、人間は誰でも祖先を洗えば、目をつむりたい
ことばかりでありましょう。

もし『救い』がその意味での罪からの救いなら、これは
自力脱出、解決の道はありますまい。

 ですが、これはどうしようも無いではないでしょうか?
あれやこれやで、私は何かの宗教に『救い』を求めるということは、
取らないと言うことにしているのです。

 (まあ、父母や祖先に対して感謝し、併せて子孫を
守ることができるなら、お願いしたいと思っているのです。)

 もっとも、現世的苦しみでもそこからの脱却は
容易ではありませんでしょう。いまさら旧約聖書
ヨブ記』を持ち出すほどでもありませんが、ヨブ記
いろいろな意味を持っていますね。

 ヨブは、その苦しみの最中に神様は現れられたわけ
です。神様とか、仏様、あるいは如来様にしろ
なんらかの実体験、つまり宗教的体験の事を
併せて考えてみたいと思います。

 宗教的体験は、万人がなし得るモノでも
多分ありませんでしょう。立花 隆の『臨死体験』の
記事などもありますが、誰もが体験しうるモノでも
ないし、その体験の様相も各人各様と言うべきもの
かと考えております。

 私には、特にこのような宗教的体験がいままでは
全くありませんのです。縁が希薄と言うか、そのような
ご縁は頂いておりません。だから、全く分からないと
しか言いようがありません。

 ですが、私は神や仏、まあ天と言った方が
よいのですが、存在を確信するものです。
『大いなる力』、と言うか、『大いなる秩序あらしめて
いる力』と言うことを信じて居るのです。

 生物と言うか、この世における生きとし生けるものの
生命の仕組みは精緻と言う言葉では表せませんね。

こんなものが、ダーウインの進化論などで説明
出来るはずがありません。

誰かが、この世にそのものを送り出されたと
しか言いようがありませんが・・・・。

兄の言葉を借りるなら、『・・・・S.60年事故で意識不明になった時、4時間後に目が覚めて
何とか元気になった時、自分にはまだまだこの世でやらなければならないことが沢山あるのでは、残された仕事があるんだと思いました。だから死なせてはもらえないのだと思った。』

 そうやね、自衛隊イラク派兵だって、その遣わした
目的があるんだもの。人間にしろ、他の生物にしろ
天が遣わされた目的は何かあると考えるのが
普通だよね。

 無用なものが遣わされることはあり得ない。
では、なんのために自分は(この世に)派遣されたのか?

 こんな事を考えるのは多分、人間だけだろうネ。
これ考えるのは、私は苦しいよ。

 俺は最近、その目的は、生物の生存目的は
”子孫を残すこと” やないかと思っているよ。
子孫が残ったら生を終わる生物は一杯いるよ。
そしてまた新しい生命が生まれてくるんだ。

 なんのために?そんなこと誰にもわからんよ。
動物は交尾し、強い子孫を残すために、雄同志の
闘いがあるんだ。植物は受粉がある。

植物は動けないから、嫌地を避けるためにも、
また繁殖の意味ででも、種子は風に乗って
移動したり、動物によって運ばれたりするので
あろう。

 人間社会も原始社会はこの理屈で
説明が出来るのだろうが、それは住み良い
社会ではない。人は万人が住みよい社会を
求めている。と私は思います。

 そう考えるなら、住み良い社会の建設に役に立つことに
自分が努力するということかな・・・・?

 そこに観点をおいて、一人一人の特徴を
生かして、その人なりの努力をすること
ではどうだろうか?

 私は藤本先生には
『誠の道に基づいてすべての事象を誠にすることに
勤める自分』と書いたのだけれど、誠の道とは
大自然の摂理の意ではあるのだが、手近な表現は
”住み良い社会の建設”と置き換えても良いのです。

思いつくままに、兄からの便りに触発されて
以上のような考え方をしました。

 兄の意見を序でのときに聞かせてください。
ご家族の皆様によろしくお伝え下さい。

                        • *** ---------

以上が私の彼への返書です。

人生について考えるなどと言うことは
どうも大変で、得意でもありませんが、
まあ、死を目前に控えたら、少しはまじめに考え
ねばなりませんでしょう。

 私の神仏観なり、宗教について思っていることを
率直に書いてみました。

 お暇なときで結構です。ご意見をお聞かせ
頂けば幸いです。

『死ぬ間際になってもそれポッチか?』ハイ、
どうも不勉強を恥じ入っております。

よろしくお願い申し上げます。

清水