生後28.997 日、現に在るを感謝

平成17年9月26日(月曜)晴 27度、7時起床、やっと朝夕は涼しくなった。マッサージを行なって起床。今日は排便は1回、中量だ。イキイキは休み。水泳なし。聴診音小、胃部1、右腹1、臍下1、左腹1、マッサージ後の屁は出た。今日は鉄梃子を真っ直ぐにする作業をした。また、ケールの苗の手入れをした。弟にニガウリ、蜂蜜を送った。

妙念寺に手紙を書く
妙念寺 住職
 藤本  誠  様

 困りました。私の勉強が足りませんのに
いきなり、宗教の核心部分の話なので
困ります。

 ですが、いずれはお話をするハメにも
なるかも知れませんので、一応書いて
見ます。

 途中が省略になるので、おかしな理屈
になるかも分かりませんが・・・・。

 私は、頭の中での理解としては、色々な
事象は、天(神様と言うか、仏様、如来様と言っても
よいのだが)の計らいによるものと思っております。

 天は深い愛の表現の方でもあると思って
おります。その愛によって、私というのがこの世に
生を受け、生きることを許されておるので
ありましょう。

 ここまでのことを受け入れることは、私だって
難しいことではありません。

 ですが、私に不幸が訪れたとしましよう。
例えばガンになるとか、家族の死とか、交通事故とか
に遭遇した場合、それが天の私に対する『愛』だとは
私は受け容れがたいのでは?と思うのです。

 多分、周章狼狽し、果ては神や仏を
恨むことにもならないとは限りません。
つまり、自分にとって都合の良いことは、
天の計らい、天の愛だと納得しても、自分の
不幸は、『なんで俺が?なぜ?』となる私では
ないかと思うのです。(勝手な私。)

 天の愛が確信出来るならば、文字通り
『万象受容』で泰然自若としておれるはずです。

 ですが、すべてのことは神のはかりごと、
相働きて良しとなる事を信じてよいので
ありましょうが・・・・。そんな気持ちになる自信は、
とてもとても、いまの私にはないように思います。

 理屈と自分の現実の行動なり考えの
隔たりがあるように思います。(頼りない。)

見出しの『万象受容との乖離』とは、こうした
私の心を言っているのです。

 先生は『そうではないよ。』と言う教えかと
思います。
このことを先生は
『すべての人を 漏れなく 救うという
教え』

と言う表現を用いておられるかと思うのです。

 もっとも、私がその場に当面すれば、
自分に都合のいいことは受け容れて、
都合の悪いことは受け容れないと言う自分では、
あまりにも勝手すぎるよ。という反省は幾度と無く
試みると思うのですが、それを克服できるという
自信はいまのところありません。

 ですが、所詮、人は『その苦しみを受け容れ
て生きる以外に道はない。』と言うところに到達
せざるを得ないだろうとも思っております。

 『自分は救われる。』と信ずるか
 『すべては、あなた様のお計りのままに』と
無条件に受容した態度で自分が生きられるのか?

 どんな自分になるか、私には分かりませんが、せめて
『みんなお世話になったね。ありがとう』と言って
死ねる自分でありたいとは思っております。

 それは、そんなに遠い先のことでは
無いという事くらいは承知しております。
今夜はこれで失礼します。


清水


妙念寺より

清水 毅様

確信にふれた 有難いメール 拝見しました。

実は 私も 寺院生活より 実社会の生活の方が長く

お念仏の 教えに 出遇うまでは 清水さんと

同じような どちらかといえば キリスト教的な

考えを持っていました。

ところが 江戸時代まで 日本国民の

過半数が信じていた 南無阿弥陀仏の価値観は

どうも 現代の常識と かなり違うもののように感じます。

明治時代に受け取った キリスト教的な科学感

価値観、加えて 第二次大戦突入前の

日本神道的な価値観、ゆり戻しで

戦後の混乱期 再度のキリスト教的な 価値観。

しかし、それもキリスト教の本質から離れた

勝手な受け取り方で 現代の日本人の精神構造は

成り立っているようです。

ところで、先にご案内した 「浄土真宗必携」の

中に こんなところがあります。

よろしければ ご一読ください。

救いを求める人間

 「救い」ということは、一般にいろいろな内容を
意味しております。

たとえば神や仏を信心して、それに祈りや願いを
かけることによって、自分の願望がかなえられると
いう意味に使われています。

このような場合、「救い」ということは、自分が
なにかに行きづまり、たいそう困ったときに、
神とか仏とかいう人間を超えたものの不思議な
力によって、その障害が除かれるということです。

そういう救いは、わたくしたちが日常生活でよく口に
する”ああ助かった” ”おかげで救われた”という
ことと、あまり違いはありません。

自分のおもいをかなえるために、神とか仏とかいう、
人間を超えたものに祈願する、ただそれだけの
違いであります。


 人間はともすれば、自分の生きる目標を、財産や、
地位や、名声などという世間的な願望のなかから
選んで、それらのものを懸命に追いかけ求めて
おります。

そして、それらの願望が満たされたら幸福な人生で
あると思い、満たされなければ不幸な人生であると
考えがちでありますが、はたしてそれは正しいこと
なのでしょうか。

 
 わたくしたちが、この人生を生きてゆくためには、
その途上において、まったく思いもかけなかった
苦しみや、悲しみや、障害にあうことがあります。
そのとき、普段は利口そうなことをいっている
学識のある人でも、また実証主義的な考えをもった
若者でも、ひとたびこのような人生の壁につきあたると、
占いや、まじないや、祈祷によるご利益などを、
本気になって信じたりします。

それは、いろいろな災難や障害の奥に、悪魔とか、
たたりとかいう、ものの気の作用がひそんでいる
ように思ったり、それを祈りやお払いをして、悲しみや
苦しみからのがれたいと思うからであります。

そこに人間本来の弱さ、もろさというものが、
うかがわれます。
しかしこのような救いは、ときには解決されたように
思うことがあっても、それは決して根本的な解決では
ありませんし、科学と矛盾し、社会に害毒を及ぼす
ようなことさえあるのです。

そういう要素をもった救いを説く宗教は正しい宗教
ではありません。


 現実の願いのとおりに、ものごとが好転し打開されて
ゆくためには、どこまでも人間のたゆみない努力が
必要で、科学の成果を活用することも大切であります。


 日本の歴史のうえで、過去七百五十年間、一貫して
現世祈祷やまじないを行わず、占いやおまもり札、
日の吉凶などをまったく否定した教えがあります。

それは阿弥陀仏の救いを説かれた親鸞聖人の
浄土真宗であります。

いったいこのことは、なにを意味しているのでしょうか。







真実の救い



 病気やお金もうけなどわたくしたちが直面している
さまざまの問題は、信じたり祈ったりすることによって
打開されるものではありません。

真実の「救い」とは、たとい現実が、どれほど自分の
願いどおりにならなかったとしても、また絶望と破綻
のなかで思案にくれるようなときであっても、なおその
壁を突破し、のり超えて生きる勇気と力を与えてくれる
ものでなくてはなりません。


 それは、絶えずわたくしたちのために願い、わたくし
たちを救おうとして、はたらきかけていてくださる
阿弥陀如来を信じ、その本願力の恵みのなかに
生かされるという、まことの心のよりどころをもつことに
よってこそ得られるのであります。

それがそのまま仏のさとりをきわめていく道を進む
ことになるのであります。

http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub1.htm#motomeru

上記の 中から 「救を求める人間」 をコピーしました。

今回も 長文になって 申し訳けありません。

有難う ございます。

                     妙念寺