昨日のS県在住の友 S 兄に追伸を書いた。以下の通り

   S 様 



   佐賀に帰って就職した先は、佐賀農業高校で長崎本線肥前山口の次の『白石』にありました。ブロッグには詳しくは書きませんでしたが、事情は以下の通りです。



   私が佐賀に帰るようになったのは、父は紡績会社の社用でフィリピンに渡っておりましたが、あの戦渦、父は現地召集で戦死致しました。



   従って父の死によりあの紡績の社宅から、言えば追い出されたワケです。”住む家がない”ではどうしようもないので、急遽私は佐賀に帰ることにした次第です。



   佐賀に帰っても家が無いのには弱りました。探し、探して江湖端(えこばた)というところに、7万円ほどのボロ家を求め、そこに親子4人が2間ぐらいのところに住みました。



   その間も、頭はずっと東京にもう一度出て、オリンピックに出られる体競技の選手になりたい一心でした。体操器具の自作は不可能で片田舎での体操競技の練習は不可能でした。



   こんなことをしていたのでは俺は歳をとってしまう。焦り、そして生活苦、苦く(にがく)苦しかった時代です。3年間で飛び出し、東京に向かったのだが、明石でストップ。



    まあ、お笑い下さい。  禿翁  



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