平成21年4月25日(土曜)雨、19度、

   先に私は ”介護保険”の事を書いたが、今朝偶然にも、NHK放送”心の時代−高知の集い”でペギー・葉山さんの介護の話を聞くことができた。 



   その中で、介護するものは如何に”介護保険”を頼りにしているかを改めて知った次第である。



   ペギー・葉山さん程の人であれば、多分経済的には、庶民の家計全体に占める介護負担の割合よりはずっと軽いだろうとは思うのだが、それでも介護の等級付けの上級格付けを願っておられたのを改めて知ったのである。



   従って、私達一般庶民はひとたび家族の誰かが、介護を必要になるような事態が起きると、その時間的、経済的、そして体力的負担は想像を絶するものだと考えねばならない。



   つまり、公的には介護保険の制度自体の負担は言うに及ばす、その家族、就中夫婦のいずれかへの負担は言語に絶すると言っても過言ではない。



   誰も好き好んで、介護を要するような病人にはなりたくはないのは道理だが、では、どうすれば良いのであろうか?



   それは、各人が健やかに老い、健やかに自然の摂理を受け容れられるように努力する以外に道はないのだが、そのためにこそ、医学はもとより、いろいろな健康増進のための施設が日夜努力していることではあろう。



   医学の発達も、健康増進の施設の充実も、所詮、各個人個人の絶えざる努力に待つ以外にないと私は思っている。人によってその重点の置き所は異なるだろうし、また異ならなければならないが、私には益軒の説く『養生の要訣は畏れの一字』、万事に畏れで望むことであると思っている。



   恩師 甲田光雄先生は死に方も私達にその範を示された。先生は昨年8月以降、食を取られなかった。そして8月12日絶命された。84歳であった。


   ペギー・葉山さんの略歴

   東京・四ツ谷生まれ(1933年)。 幼少時から歌が好きだった。、青山学院中学部(現青山学院中等部)在学中に声楽を習い、音大進学を志していたが、女子高等部(現青山学院高等部)2年の時にビング・クロスビーの主演映画『我が道を行く』を観た際、劇中でクロスビーが歌う「アイルランドの子守唄」に感動し、クラシックからポピュラー/ジャズへの転向を決意。

   学校卒業後の翌1952年11月にキングレコードから「ドミノ/火の接吻」を発売し、レコードデビュー。

   1954年にはNHK紅白歌合戦に初めて出場する。1955年2月には初渡米。1958年、ミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で芸術祭個人奨励賞受賞。 翌1959年には「南国土佐を後にして」の空前の大ヒットで、そして1960年、オーストラリア/ゼネラルテレビの招きで、テレビ番組『今宵のメルボルン』に1か月間レギュラー出演する。この年の8月にはロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代表として招かれる。この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。帰国後、自身の作詞で劇中歌「ドレミの歌」を紹介/発売している。
1963年の春に気胸を患い半年間の療養を余儀なくされた。が、病気療養中に「ラ・ノビア」もヒットしたことも幸いし、ブランクをものともせず無事復帰した。 また、復帰翌年の1964年には「学生時代」がヒットし、人気の健在ぶりを示した。
1965年に俳優の根上淳と結婚、1968年には長男を出産している。 根上とは、芸能界きってのおしどり夫婦で知られ、1997年に根上が糖尿病の合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けた。
1974年には司馬遼太郎に続き、二人目となる高知県名誉県人の称号を贈られる。1995年に紫綬褒章、2004年には旭日小綬章をそれぞれ受章。2007年6月からは、青木光一の後を継ぎ、社団法人日本歌手協会7代目会長に就任。現在も、歌手としての活動のほか、日本歌手協会会長としての業務、亡夫の介護体験をもとにした講演を行うなど、デビュー55年を超えてもなお第一線で活躍し続けている。 


代表曲 [編集]
ケ・セラ・セラ(ドリス・デイのカバー)
島原の子守唄(もともとは島倉千代子が歌っていたものだがペギー葉山のカバーによって世に知られるようになった)
南国土佐を後にして(1959年当時で100万枚を超える大ヒット。第40師団歩兵第236連隊の歌のリメイク)

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