昨日の古文書学習会で面白い話を聞くことができました。それは、姫路城が今日まで保存された経緯のような話でして、度々の危機があったらしい。第一回は築後130年を過ぎた頃に天守台の地盤沈下があって、天守閣が南東方向に傾いたこと、「筋交い工法」という方法で補修、倒壊を免れたとか、第2回目は、崩落寸前の姫路城を救ったのは、陸軍省第4局長代理・中村重遠大佐で城を守った恩人と言われているそうです。



   ところで、この姫路城、明治5年頃には荒廃著しく、陸軍省から売却、入札があったらしい、その値、僅か23円50銭で落札されたのだが、落札者も当初は瓦外の古材を利用する目的だったが、解体費に大きな費用もいるし、古材そのものも大して価値がないことに気づき落札後そのまま放置していたらしい。


   いろいろとどうするのかと言うことで問題となっていたが・・・・。結局今で言うところの文化財や勿体ないでは無いかと言うことで復元されたのだが、その後もまだまだその保存には紆余曲折があったらしい。


   あんな、そんな経緯があったものの、かの第2次大戦で、姫路は殆ど壊滅に近い打撃を受けたのに、何故姫路城は残ったのか?


   姫路周辺各市の爆撃を担当していた、Arther Toms 氏が来日し、姫路に来て皆に話したところでは、当時のB29に積んでいたレーダーは陸地と海位を判別するくらいの能力しかなかったそうです。


   そんなことで米兵としては城の周辺の掘り、そして続く田んぼの影響で、このあたりは水田ぐらいにしか判断出来なかったであろう。言ったそうです。


   外堀と水田が姫路城を戦火に会うことから救い、そしていまや、世界遺産となっている。