池田重利公の御歌

 池田 重利(いけだ しげとし、1586−1631)、重利については新宮町史6−7巻に詳しい。
 この後、詳述したい。(梗概は下記の通り)


江戸時代初期の大名で播磨・新宮藩の初代藩主。元は本願寺の坊官であり、下間 頼広(しもづま らいこう)と名乗っていた。

本願寺の坊官に相応しく学識だけではなく武芸にも通じていた事から、慶長14年(1609年)叔父から仕官を勧められて母方の叔父である池田輝政に仕官、3,000石をもって池田輝政の嫡子・利隆の補佐を命じられた。4年後(1613)、利隆が輝政の後を継ぐと池田姓を与えられて「池田重利」と改名し、翌年には池田氏重臣として徳川家康に拝謁している。

 大坂夏の陣(1615)では尼崎城を守って戦功があり、戦後に家康から1万石を与えられて大名となった。寛永3年(1626年)には播磨国揖東郡に移封、新宮(現在の兵庫県たつの市新宮町)に陣屋を設置し、新宮藩を創設した。


三十二、ひとりねのさならん床も袖ぬれぬ

        わかれなれたるあかつきのそら

P>        訳=今宵は逢うことも出来ず独りさびしく寝て袖も涙で濡れてしまいました。いつもそうであるように暁の空のみはいつものお別れのときと同じように空しく輝いております。

        ※さならん=然ならぬーそうではない・それ程でもない。


三十三、なかなかにまたれぬ身をばおきながら

        月みぬきみが名こそおしけれ

        訳=一緒に月を見たいと思っておりましたのに待ちくたびれ、おいでにならぬあなた様が口惜しいことでございます。