よく訪れるホームページのI氏から次のようなメイルを頂いた。

清水  毅さま

メール頂きながら、ご返事もせず失礼しております。(中略)老々介護に明け暮れております。
 そんななかで、私のHPを一つ更新ではなく追加をしました。是非、貴兄に読んで出
来れば感想を伺いたいと思っております。URLは
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shigeaki/KyoikuSaisei.html
です。押しつけがましく恐縮ですが、よろしく。

 と言う内容であった。

 上記のホームページは、読んで貰ったら分かるが、阿部総理大臣の教育改革案に対する
N氏の注文等に対するI氏の反論等である。I氏の熱意に深い感動を覚え、私も所感を述べることとした。
 主題に上がっている、個別の案件と言うよりも、私には総括的な問題として、個人と国家、なかんずく国家というモノの国家エゴと個人の理想社会との接点が求められるのか否かの問題としてお答えしたいと思う。インタ−ネット上での個人的考えに、コメントすることは、如何なモノかとも思うので、私は下記のように過日の日記から引用し返事を書いた。
−−−−−   手紙への返事  −−−−−−
I 様

 奥様が、○○の由、どうぞ1日も早いご快癒を祈念しております。
 さて、私の方は、コレコレのホームページに変更があれば知らせてくれと言う、アンテナを立てて居るに過ぎませんのですが、たまたま、『IさんのH.P.に変更があったよ』と言う信号が入ったモノで、前回のようなお便りをした次第。
 ときどきH.P.に伺っては、”心の癒し”をしているものですから、私奴のことはお許し下さるようにお願い申し上げます。

 (今朝の)メイルの御返事に『是非、貴兄に読んで頂き、出来れば感想を伺いたいと思っております。URLは......』とありますので、その項目を拝見しました。
一口で言えば、兄の若々しい新鮮な、そして教育に対する強い意志の力を感じました。
 私に、感想を”伺いたい”と言って下さいましたご厚意に甘えて、自分の考えを述べてみたいと思います。
私の主張の根拠
1.孔子孟子の教えを主にした儒学が日本人の思想の根幹をなしてきたが、儒学には、今日的国家思想があったとは思いがたい。個人と国家とを如何に考えるか?これは、重大な問題であると思う。
  個人の考え方の以前に国家があるのか?
  自分が所属する集団と個の関係をどう考えるか?
  この事について新しい秩序が求められている。と私は思います。

2.普遍的『愛』の表現について。
  ここで言う『愛』とはエロス的愛というよりもアガベ−的な愛と理解して頂きたい。

3.真の『勇気』の概念について
  自己の思想を表現しようとする場合は、必ず抵抗とか圧迫、ときに死を覚悟の闘が伴う。勇気とはなにか?
 以上の3点から論じられるのが、今日的教育問題を考える場合は適当かと思います。
 先般来、アメリカの「ピースフル・トゥモローズ」について私見を述べてきたので、この問題についての、回答の一助になると思うので、ここに再掲する事をお許し頂きます。

平成19年6月19日(火曜)、の日記の一部
■[文書往来] 10:05
−−−  有り難い友 −−−より
(前文省略)
 そして、自分の気持ちの中にどこか釈然としないまま打ち過ごしている問題があります。あなたのブロッグをみて、あれを思いこれを思っていた矢先の「ピースフル・トゥモローズ」のTV放映でした。
 アフガン侵攻後アメリカはイラク進撃とエスカレート、そしていま、アメリカはイラク撤退を考えているこの時期と情勢は大きく変わりました。このような時期であれば人は反戦的言葉も何とでも言えますが、あの9:11直後からの「ピースフル・トゥモローズ」の活動に私は深く打たれたのです。
アメリカというのは、大きな政府に向かっても自分の思うことは何でも言える国であるべきだ、これがアメリカという国の建国の精神なのだ。』と彼らは言っている。
 その自由な精神が『暴力に向かうのに暴力では悲劇を多くの人に与えるノミだと。』という強い信念、そのヒューマニズム、そして反戦活動、その為の地道な彼らの努力を私は高く評価しているのです。
 自分の考えを辛抱強く、相手に分かる言葉で伝えようとする熱意と誠意にも私は自分に無いモノを見る思いが致しました。自分の意志が通らなければ、爆弾抱えて相手に突っ込むのを良しとするような思想を今の私は支持できない。
 かっての日本は、そのような行為を『特攻隊』と称して賛美しましたが、そのようなことを美徳として、当時は私をはじめ多くの日本人は少しも疑いを持ちませんでした。『特攻隊』のような行動は日本人しか出来ないのだ、位の気持ちさえもっていたのですから・・・・。
 いまから思えば、そんな無謀な方法・手段にさえ何の不思議も矛盾も感じない青少年を育てた明治・大正・昭和初期の教育を思うと、教育とはある意味で本当に怖いとさえ思います。
 良心とは何か?はたまたアメリカ的良心とはなにか?私は深い感動をもってこのTV番組を見たのです。
 おKさんと、こんな話ができることを喜んでいるのです。あなたの反応の早さに心から満足し、そして感謝を申し上げたいのです。有り難うございました。
 私が『葉隠』で育ちながらも、今の私は『葉隠』とは地理的にばかりではなくて、思想的にもある種の距離をおいている理由は『葉隠』の一本気と短慮とも思える結論のだし急ぎです。『葉隠』は初代直茂公、(日峯さん)をもっと見習えばよいかと思っております。
 日峯さんは又の機会にして、蛇足ながら、葉隠批判をしましたが、今日は早速のメイルに心から
感謝申し上げる次第です。有り難うございました。
「ピースフル・トゥモローズ」について、下記の日記から再掲
平成19年6月18日(月曜)、曇り時々雨、
 昨日、『実践倫理宏正会の発表会、壮年の集い』から帰って、TVを見るともなくあちらこちらをグルグル回して見ている中に、NHK hi_vision に釘付けになった。後で調べたら再放送だったようだが、題名その他は下記の通りである。
放送時間 16:30ー18:00
ニューヨークまるごと72時間 ハイビジョンスペシャル「ピースフル・トゥモローズ」
概要:
9・11テロ 戦争反対を訴えた遺族たち−
 ▽同時多発テロで家族を失ったピースフル・トゥモローズのメンバーは、報復攻撃への反対を訴え活動している。アメリカ社会からの非難にさらされた1年。 

※TVを見た私の感想

 私達の考え方の中には、小さな社会の考え方よりも大きな社会の考え方が正しいように思ってしまう習性のようなものはないだろうか?

 個人的考えよりも、地域社会の考え方が正しいとか、個人の考えよりは、国とか国家とかが行うことがより善であり正しいと思ったりはしていないか?

 いや、一歩も二歩も譲って、自分の考えが正しいと思ってもそれを行う勇気を私達は持ち合わせているだろうか?

 9・11テロ以来、ブッシュ大統領アフガニスタンへの侵攻決定を支持し、むしろ遅すぎた攻撃だとさえ言ってきた。アメリカの世論は99パーセントまで、ブッシュ大統領を支持してきた。

 だが、実は同時多発テロで家族を失った人達の中に、報復攻撃への反対を訴え、戦争反対を訴え続けた人達がいたのだ。これらの活動をピースフル・トゥモローズと言い、報復攻撃への反対を訴え続け、そのこと故にアメリカ社会からの非難され、身に危険さえ感ぜずにはおられない状態にさらされ続けながらも、戦争反対を叫び続けている人達がいることを私は初めて知った。

 日本の社会で『戦争反対』を唱えるのは易しい。アメリカの社会にあって9・11テロ直後に、自分の肉親を失いながらも、自分の信念として『戦争反対』を訴えると言うその一貫した精神を私は高く評価したい。私にはそのような崇高な信念もないし、勇気もない。彼らの落ち着いた話しぶり、少しの力みもない語りかけ、本当にアメリカの良心を見る思いがした。

 これはインド独立の父、ガンジーの『非暴力不服従』と軌を一にすると言うことができるであろう。勇気とはこのような事を言うのだ。

「結語」
 教育についての私見 

 私は教育に携わりながら、あんまり教育の力を過大評価しないことにしている。信じていないのではないが期待し過ぎないようにしている。

 サリバン先生の教育によって、動物的生活から三重苦のヘレンケラー女史は救われ同時に女史の社会活動は始まった訳だが、だからといって教育が無限に可能性を引き出すモノとは考え難い。

 教育の力は儚(はかな)い。儚いからどうでも良いというのではなくて、だからむしろ真剣に、必死で取り組まねばならないが、それは『流水に文字を書く』(森 信三氏の言葉)如く儚い。教育的営みは愛(かなしいとも発音する。言い得て妙)。

 私は、人間は遺伝的素質の方が教育に優先して出現するのでは?といつも思っております。
そもそも英語の Education の E は、外にと言う接頭辞である。つまりその子の内在するものを
外に引き出すと言う意味で、子供をある方向に偏向することではないのである。

 問題は ducate=direction どの方向に引き出すのか?
 私は普遍的『愛』ということではないかと思っている。

清水