親しき友へ。
 ワシはブロッグの友、お小夜さんから次のような書き込みを頂いたよ。
ss_sayoko
『いつも思うのですが、貝原益軒という人は、それではいったい何を食べたほうが一番いいとおっしゃっているのでせうか?と(^^; 私には、必要以上に口にするな・・という風に言ってるようで仕方がありません笑
 あれもだめ、これもだめ・・これがいいといったものでも、冷たければだめとかなんとか・・よくわかんないなあ。』

返事文
『お小夜さん:率直な御意見に心からお礼を言いたい。(これは決して皮肉ではない。心から感謝しています。そんな率直な意見は滅多に聞けないモン。)
 さてそこでお小夜さんに対する返事だが、いまのお小夜さんには”健康法”なんてのは必要ないの!したいように、好きなモノを食べて、お酒が飲みたかったら飲んでいても良いの。

 しかしいつか、そうできなくなるときがイヤでもくるのよ。40歳前後のご婦人が『健康法』なんてものに興味をもっていたら、それだけで『お気の毒』か『キミワリーイ』だ。
 あと、30年か40年したら、また読みに来てね!?&$%!88 頑張るゾ爺、(^_-)。』
 と回答をした。その心は人は必要とするときが来るまでは言っても分からないと言う気持ちが私にあったからなのだが、でももう少し分かりやすい表現はないか?と改めて思っている。
 人の加齢は避けられない絶対性のものなのだ。そしてその歳になってみないと分からない世界というものは確かにある。『冬の寒さの最中には、夏の暑さは考えられない。またその逆も同じ』。人なんてそんな程度のモノやと思う。数ヶ月前のことでも、現実問題と対処するのは極めて難しいのだ。
 でも人はトシを必ずとる。誰でもがいつかは爺、婆になり、そして死ぬのだが、その死を迎える過程も千差万別だが、多くのモノは健康を損なって死ぬのだ。枯れ木がドーと倒れるように死せる人はすくなく、病によって死に至るケースが圧倒的に多い。
 こんな絶対的なことにすら、人のこれらに対する対応は深浅様々と言わざるを得ない。

 私は一般論として言えば、人間が健康生活を送るためには、『生涯勉強!』だと思っております。人は5年前の体と、5年先の体は誰でも異なっております。その時々に最善の健康法はあると思うのですが、一つにはその最善の方法がはっきり分からないこと。一つには、分かっても実践の為の意志の力が不足などなど。

 日々変わりゆく自分の体の勉強があり、良いと思うことを実践する”意志の陶冶”が
必要でもあるかと思っております。そう思うが故に、健康法は非常に個別的であるのではないか?と言うのが私のいまの健康法に対する所感です。

 健康と食生活もこの観点で絶えざる研究心は必要ですが、考え方の基盤は、人間の体はここのところ何千年も、何万年もたいして変化していないどころか、その過去の食生活に対応し、変化して生き続けたという現実があるということ。

 だから、食生活も1000年くらい前の生活様式に対応が出来ているので、そこに軸足をおいた生活をする、つまり飢餓が普通の状態である。片や余裕があれば、近代的食生活を月に1−2度ぐらいは楽しんでもよいか?と考えているのです。
貴兄の 御意見を伺いたい。