葉隠、鍋島光茂公に関する質問があったことは昨日書いた。その事への礼状がホームページにでている。
http://q.hatena.ne.jp/1170174309/69711/#i69711
返事の内容
有難うございました。すごい…御博識にただ驚きです。 愚君についてですが、すべて大学の日本政治思想史の授業で聞いた話です。決して叡君ではなかった…という文脈だったかもしれません。どんな君主にも絶対的に ...

私から再度返事をした。
森川さんとおっしゃるのでしょうか?
 鍋島光茂公が”愚君”かどうか?光茂は1632年に江戸屋敷で生まれていますね。つまり関ヶ原の戦いの32年後ですか。
そして彼が治世をするようになったのは、1657年ですから、戦後約60年ですね。泰平の時代を謳歌したのは、戦後の今と全く同じと言って良いでしょう。

 彼の側近は石田一鼎(儒学者)、はじめ僧の湛然などですがこれらの方々は藩祖直茂、初代の勝茂をよく存じているものばかり、気骨にあふれたそうそうたる者ばかり。

 一方光茂公は、気の優しい文人肌、何かと肌合いのしっくりいかないところがあったのでありましょう。

 光茂公は1662年、追腹禁止(殉死を禁止する令)をだしています。幕府が武家諸法度で殉死を禁止したのはその翌年ですから、まあ、時の最高権威者の決定以前に、ある種の法令を設定し施行するということが当時としては如何に画期的なことかを考えると、愚君と呼ぶのはどうかと思います。

 つまり、殉死などと言うことはするな、命を大事にして長生きをせよと言うのですから、いまの時代には受け容れられやすい思想と思いますがどうでしょうか?

 一方、石田一鼎の流れをくむ、山本常朝らは『葉隠』にもあるとおり、”ツベコベ言わずに、ややこしかったら腹を切って死ね。”とこの方は、いささか短兵急なところはありますが、ある種の人間的弱さの克服の極意を述べていますから、まあ、両者は意気投合とは行きませんでしょう。

 『大学の日本政治思想史の授業』云々ですが、ワシのH.P.座右の銘にもあげているが、
 物無非彼、物無非是。
 (読み)物、彼に非ざるはなく、物、是に非ざるはなし。
(訳)どんなものでも、見方によってすべて、ああでもあり、こうでもあるものである。   荘子 内編 斉物篇

 最近は使われなくなった言葉に
『群盲象をなでる』と言う俚諺がありますね。『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』と言う言葉もあります。人の思想を簡単に論ずることはできません。

 最後に光茂公の和歌のことですが、この和歌を詠んだのが、14歳、率直で素直でよいじゃありません?これが40歳、50歳の人が詠んだというのなら、面白くありません。

 詩の話をするのなら、万葉集があり、中国の詩経があります。私にはどちらの詩にも共通して言えるのは、実に素朴でホノボノとした心の安らぎを覚えると言うことであります。現代風には山頭火の詩を読んで見て下さい。きっと納得がいかれると思います。

 『ワイは短歌つくったデー』、『エッ、ボンどんな歌出来ましたんや?』
 ”さむき夜にはだかになりてねたならば明くる朝はこごえ死ぬべし”

 そのとおり、鍋島家は庶民の貧困、粥も食べられぬ者に善政をしいていることは枚挙に暇がない。
         葉隠研究家  81歳の爺から

 漢詩の世界は広大にして深淵。詩経を覗いて見てその大らかさに心洗われる思いをし、陸游の気概溢れる詩を読んで心が躍る。李白杜甫に至って人生の機微を感ずる。すべてに鈍な私、こうした世界をどれだけ汲みうるかは私の器次第なのだが、時間をかけてボツボツ歩くとしよう。長生きをしないとイケナイ。(^_^)v。

食するときの五思(貝原益軒
 食するとき、5思あり。
1には、この食の来るところを思い遣るべし。幼くしては父の養いをうけ、年長じては君恩よれり。是を思いて忘るべからず。
2には、この食もと農夫勤労して作り出せし苦しみを思い遣るべし。忘るべからず。みずから耕さず、安楽にて居ながら、其の養いを受く。其の楽を楽しむべし。
3つには、われ才徳・行儀なくなく、君を助け、民を治むる巧なくして、この美味の養いをうく。幸い甚だし。
4つには、世にわれより貧しき人多し、糟糠の食にもあくことなし。(後略)
5つには、上古のときを思うべし。上古には五穀なくして、草木の実と根葉を食して飢えをまぬがる。その後、五穀出来ても、いまだ火食を知らず。釜、甑なくして、煮食せず。生にてかみ食へば、味なく腸胃を損なうべし。(後略)

 曹洞宗の本山、永平寺の修行僧は食前に『五観の偈』というのがあって、ともに食前の感謝の気持ちを表して食卓についている。食前の食物に対する感謝の念を忘れてはならない。この平易なことがなかなか行われていないのが、今の飽食の日本の姿であろう。

 物無非彼、物無非是。
 (読み)物、彼に非ざるはなく、物、是に非ざるはなし。
(訳)どんなものでも、見方によってすべて、ああでもあり、こうでもあるものである。
                            荘子 内編 斉物篇
 有機械者必有機事。有機事者必機心
(読み)機械ある者は、必ず機事あり。機事ある者は、必ず機心あり。
(私の勝手読み)機械を好む物は策略を弄し勝ちだ。人との交際で策を弄してはならぬ。                               荘子 外編 天地

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